はじめに
アニメ『グノーシア』第7話「アンダスタァン?」では、新たにオトメとレムナン、沙明が加わりました。
しかし、第6話までのように、人狼ゲームとして複雑な盤面や駆け引きが描かれる回ではありません。
会議が始まるはずなのに、沙明は部屋から出てこない。
しげみちはステラへの恋心を語り始める。
ジョナスとしげみちは、なぜかゲームで勝負を始める。
そしてジョナスは、その勢いのまま自分がグノーシアだと口走ってしまいます。
人狼ゲームとして見ると、かなり特殊な回です。
ですが、第7話が重要ではないわけではありません。
むしろ今回の中心にあるのは、これまでとは少し違う問いです。
「そもそも、人間とは何なのか?」
知性化されたイルカであるオトメ。
人間の姿をしていながら、自分を人間ではないと考えているステラ。
そして、グノーシアになっていた沙明。
第7話では、この3人を通して「人間」と「人間ではない存在」の境界が揺さぶられていきます。
今回は人狼ゲームの勝敗だけではなく、オトメとステラ、そして沙明を中心に、第7話で描かれた「人間とは何か」というテーマを考えていきます。
※この記事はアニメ『グノーシア』第7話までのネタバレを含みます。
前回の記事はこちら
- はじめに
- 第7話は「人間とは何か」を描いた回
- オトメはなぜ「人間」と言われて喜んだのか
- オトメとステラは正反対の立場から同じ悩みを抱えている
- ステラにとって「グノーシアになれる」とは何を意味するのか
- ステラは「恋愛できない」のではなく、自分から距離を取っている
- 沙明はなぜ部屋から出てこなかったのか
- グノーシアになっても「その人」は残っているのか
- 人狼ゲームとして見る第7話
- 第7話ではなぜ人狼ゲームがほとんど描かれなかったのか
- まとめ|「人間」と「人間ではない存在」の境界が崩れた回
第7話は「人間とは何か」を描いた回
第7話を理解するうえで、まず押さえておきたいのがオトメの存在です。
オトメは人間ではなく、知性化されたイルカです。
それでも彼女には知性があり、人間たちと会話し、感情を持っています。
そんなオトメが気にしたのが、
「自分のような存在でもグノーシアに汚染されることがあるのか」
という問題でした。
これに対してセツは、オトメには知性があるため、グノーシアに汚染される可能性があるという趣旨の説明をします。
一見すると単なる設定説明ですが、このやり取りは第7話全体を考えるうえで重要です。
『グノーシア』では、グノースは「電脳化された人の意識の集合体」と説明されています。
そしてグノーシアとは、そのグノースに接触し、汚染された存在です。
つまりグノーシアという現象自体が、そもそも「人の意識」と深く結びついています。
ここで重要なのは、
「グノーシアになれる=生物学的に人間である」
という意味ではないことです。
オトメは明らかにイルカです。
それでも、人間の意識の集合体であるグノースから影響を受ける可能性がある。
このことから考えると、『グノーシア』という作品では、人間・イルカ・人工知性といった身体の違いよりも、知性や意識を持っているかどうかの方が重要なのではないでしょうか。
つまりグノーシアになれることは、その存在が少なくともグノースから見て、人間と同じ「意識を持つ存在」の側にいることを示しているとも考えられます。
普通なら、
「グノーシアになった=人間ではなくなった」
と考えたくなります。
しかし第7話では逆に、
「グノーシアになれること自体が、人間と同じ意識の側にいることを示しているのではないか」
という読み方ができるのです。
オトメはなぜ「人間」と言われて喜んだのか
オトメにとって重要なのは、単に自分がグノーシアになる可能性があるかどうかではありません。
彼女自身が、人間という存在に強い憧れを持っていると思いました。
オトメは知性化されたイルカです。
人間と普通に会話することはできますが、身体は明らかに人間とは違います。
だからこそ、自分が人間からどう見られているのかを気にしているように見えます。
ジナから「人間だと思う」という趣旨の言葉を向けられたとき、オトメが嬉しそうにしていたのも印象的でした。
ここから考えると、オトメが求めているのは、生物学的に人間になることではないのでしょう。
そうではなく、
知性や感情を持った一人の存在として、人間と同じように扱ってほしい。
その思いが強いのだと思います。
だからこそ、「自分もグノーシアになる可能性がある」という話も、オトメにとって完全に否定的な意味だけを持つものではありません。
もちろん、グノーシアになること自体は危険です。
しかし同時に、
「自分も人間と同じようにグノースの対象になる」
という事実は、オトメが人間と同じ意識を持つ存在として扱われていることにもつながります。
かなり皮肉な形ではありますが、オトメにとっては「自分も人間と同じ側にいる」と感じられる要素の一つだったのかもしれません。
オトメとステラは正反対の立場から同じ悩みを抱えている
そして第7話では、オトメとよく似た悩みを抱えている人物がもう一人登場します。
ステラです。
今回、ステラが星間航行船D.Q.O.を管理する擬知体「LeVi」の人間型端末であることが明かされます。
つまりステラは、普通の人間ではありません。
見た目は人間そのものですが、その正体はLeViとつながった人間型端末です。
ここでオトメとステラを比べると、2人はかなり対照的です。
オトメは、
見た目は人間ではない。
しかし、人間として認められたい。
一方のステラは、
見た目は人間そのもの。
しかし、自分は人間ではないと考えている。
出発点は正反対です。
それでも、2人が抱えている悩みの着地点はよく似ています。
「私は人間と同じように扱われていい存在なのか」
という問題です。
第7話では、この2人を並べることで、
「人間かどうかは、見た目や身体だけで決まるのか」
という疑問を浮かび上がらせているように見えます。
ステラにとって「グノーシアになれる」とは何を意味するのか
ここで重要になるのが、これまでのループです。
ユーリやセツは、すでにステラがグノーシアになっている世界を経験しています。
つまりステラも、実際にグノーシアへ汚染される可能性がある存在です。
オトメの場合は、人間ではない身体を持っていてもグノーシアの対象になることが重要でした。
一方、ステラの場合は、人工的な存在であってもグノーシアの対象になることが重要です。
ステラ自身は、自分を人間ではないと考えています。
しかし、人の意識の集合体であるグノースはステラにも干渉することができます。
少なくともその点では、ステラは単なる機械として扱われているわけではありません。
ここで言う「人間」は、生物学的な意味ではありません。
むしろ、
人間と同じように知性や意識を持つ存在
という、より広い意味です。
その意味では、ステラもオトメも、人間と同じ地平に置かれていると考えられます。
さらに、ステラ役・早見沙織さんの公式インタビューでも、ステラには「自分は人間ではない存在だけど、人間になれるかもしれない」という憧れや希望があり、そのためグノーシアになることを必ずしも完全な悪として受け止めていないことが語られています。
少なくともステラ本人にとって、
「グノーシアになれること」と「人間になれるかもしれないという希望」
がどこかでつながっていることは分かります。
そのため、グノーシアになれることが「人間に近い存在であることを示すもの」として働いている、という読み方は十分にできるのではないでしょうか。
ステラは「恋愛できない」のではなく、自分から距離を取っている
第7話では、「人間とは何か」というテーマがしげみちの恋愛にもつながっています。
しげみちは以前からステラに好意を持っていました。
そして今回、その気持ちがかなり直接的に描かれます。
ステラがジョナスと行動を共にしていることを気にしたしげみちは、ついにはジョナスへ勝負を挑みます。
ここだけ見ると、かなりコメディ色の強い展開です。
しかし、ステラ側から見ると少し印象が変わります。
ステラは、しげみちから好意を向けられることそのものを嫌がっているわけではありません。
むしろ、自分にそうした感情を向けてもらえることを嬉しく思っています。
それでも、しげみちの気持ちに応えようとはしません。
なぜならステラは、
「自分は人間ではない」
と考えているからです。
つまりステラは、
「恋愛という感情を持てない」
のではありません。
むしろ、
「自分は人間ではないから、人間と同じような恋愛関係にはなれない」
と、自分から距離を取っているように見えます。
人とのつながりに憧れている。
好意を向けられれば嬉しい。
それでも、自分はその中へ入ってはいけないと思っている。
ここには少し寂しさがあります。
ステラ役の早見沙織さんも、公式インタビューで原作スタッフからステラを「恋に恋するOL」のようなキャラクターだと説明されたことを明かしています。
ステラには恋愛への憧れがあります。
だからこそ、「私は人間ではない」という自己認識が、彼女自身を恋愛から遠ざけているように見えるのです。
また、しげみちの恋を強く後押しするオトメの姿も印象的です。
オトメ自身の素直で善意の強い性格による部分が大きいとは思いますが、人間として扱われることを喜ぶオトメが、人間同士の恋愛や感情に強く関心を示しているのは興味深い描写です。
人間ではないとされる2人が、どちらも恋愛や人とのつながりを重く見ている。
ここにも、第7話の「人間とは何か」というテーマが表れているように思います。
沙明はなぜ部屋から出てこなかったのか
第7話でもう一人重要なのが沙明です。
今回、会議を始めようとしても沙明が部屋から出てきません。
この時点では、沙明がなぜ出てこないのか分かりません。
しかし、最終的に沙明はグノーシアだったことが判明します。
作中では沙明自身の意図が明言されていないため、ここからはあくまで一つの解釈です。
もし沙明が自分がグノーシアになっていることを理解していたと仮定すると、
人間を消したくないために、あえて部屋から出てこなかった
と考えることもできます。
さらに、周囲へ強い言葉を使い、自分が嫌われるような態度を取っています。
これも、
自分へ投票を集め、コールドスリープしてもらうため
だったと考えると、行動の筋は通ります。
つまり沙明は、自分が犠牲になることで人間側を勝たせようとしていた可能性があります。
もちろん、作中で理由が明言されているわけではないため断定はできません。
ただ、もしこの解釈が正しいのであれば、第7話のテーマはさらに深くなります。
グノーシアになっても「その人」は残っているのか
通常の人狼ゲームであれば、人狼は最初から村人とは別陣営です。
しかし『グノーシア』では少し事情が違います。
グノーシアは、もともと別の生物なのではありません。
グノースに接触し、汚染された存在です。
つまりグノーシアになる前には、その人物自身の人生や価値観があります。
そして、沙明の行動を先ほどのように解釈するなら、
グノーシアになったからといって、それまでの人格や感情がすべて消えてしまうわけではない
可能性も見えてきます。
グノーシアとして人間を消そうとする側にいる。
一方で、人間には生き残ってほしいという気持ちも残っている。
沙明の中には、この二つが同居していたのかもしれません。
そう考えると、部屋に閉じこもったことも、自分を嫌わせるような態度を取ったことも、沙明なりの自己犠牲だった可能性があります。
少なくとも第7話は、
「グノーシアになった=それまでの人格や感情が完全に消えた存在」
と単純には割り切れない描き方をしているように見えます。
そしてこれは、オトメやステラとは逆方向から「人間とは何か」というテーマにつながっています。
オトメとステラは、
人間ではないとされる存在にも、人間らしい感情がある
ことを示しています。
一方の沙明は、
グノーシアになった存在にも、それまでの人間らしさが残っている可能性
を示しているように見えます。
第7話は、この両側から「人間」と「それ以外」の境界を曖昧にしているのではないでしょうか。
人狼ゲームとして見る第7話
ここまでストーリー面を中心に見てきましたが、第7話にも人狼ゲームとして気になる部分があります。
ただし、今回はあくまで補足程度です。
ジョナスの「沙明を追放すればいい」は結果的に身内切り
沙明が部屋から出てこないため、会議そのものが始められません。
そこでジョナスは、
「来ないなら沙明を投票で選べばいい」
という趣旨の提案をします。
結果から見ると、これはかなり面白い発言です。
なぜなら、
-
ジョナス=グノーシア
-
沙明=グノーシア
だったからです。
つまりジョナスは、結果的に仲間のグノーシアをコールドスリープさせようとしていたことになります。
人狼用語で言えば「身内切り」に近い行動です。
ただし、ジョナスが戦術として意図的に仲間を切ろうとしたのかは分かりません。
そのため、
「ジョナスは身内切りを狙った」
と断定するのではなく、
「結果的には身内切りになる提案だった」
くらいに見るのが妥当でしょう。
沙明なしで投票は成立するのか?
もう一つ気になるのが、投票のルールです。
沙明は会議に姿を見せませんが、ジョナスは「沙明を投票で選べばいい」という趣旨の提案をしています。
しかし、欠席者がいる状態でも投票を行えるのか、沙明自身が投票に参加する必要があるのかは、第7話だけでははっきりしません。
最終的には別の理由からジョナスがコールドスリープされるため、この点は曖昧なまま終わります。
細かい部分ですが、人狼ゲームとして見ると少し気になるところです。
ジョナス、自分がグノーシアだと口走る
そして今回もっとも分かりやすい人狼要素が、ジョナスの失言です。
しげみちとのゲーム勝負に夢中になったジョナスは、テンションが上がりすぎた結果、自分がグノーシアであることを口走ってしまいます。
その結果、正体がバレてコールドスリープされます。
人狼ゲームとして戦術的に分析するような場面ではありません。
完全にうっかりミスです。
第7話自体がコメディやキャラクター描写を重視した回なので、ここも素直にギャグとして見るのがよいでしょう。
第7話ではなぜ人狼ゲームがほとんど描かれなかったのか
第7話は、これまでと比べても人狼ゲームとしての駆け引きがかなり少ない回です。
しかし、これは単なる「箸休め回」と片づけるべきではないと思います。
『グノーシア』は最初こそ人狼ゲームのルールを中心に進みますが、ループを重ねるほど、少しずつ乗員たちの事情や世界の謎へと比重が移っていきます。
人狼ゲームは、この作品の目的そのものというより、
キャラクターたちの正体や感情を知るための仕組み
としても機能しています。
第7話では、その方向性がかなり明確になりました。
誰がグノーシアなのかを推理することより、
オトメは自分をどう考えているのか。
ステラはなぜ自分を人間ではないと思っているのか。
沙明はグノーシアになって何を感じていたのか。
そうしたキャラクターの内面が中心になっています。
だから第7話は、人狼ゲームとして内容が薄い回なのではありません。
物語が「誰がグノーシアなのか」から「そもそも人間とは何なのか」へ一段深く入った回
と考えると分かりやすいでしょう。
まとめ|「人間」と「人間ではない存在」の境界が崩れた回
第7話では、人狼ゲームの駆け引きよりも「人間とは何か」という問題が強く描かれました。
見た目は人間ではないものの、人間として認められたいオトメ。
人間そのものに見える姿をしていながら、自分を人間ではないと考えるステラ。
そして、グノーシアになってもそれまでの感情を残していた可能性がある沙明。
3人を見ていると、身体や立場だけでは「人間」と「それ以外」を簡単に分けられないことが分かります。
特にオトメやステラもグノーシアになり得るという設定は、
人間・イルカ・人工知性という違いを超えて、知性や意識を持つ存在が同じようにグノースの対象になっている
ことを示しています。
そう考えると、
グノーシアになれることは、その存在が“人間と同じ意識の側にいる”ことを示す一つの要素なのではないか。
そんな逆説が見えてきます。
第7話では、人間ではない存在にも人間らしさがあり、グノーシアになった存在にも人間らしさが残る可能性が描かれました。
『グノーシア』は人狼ゲームを題材にした作品ですが、第7話では「誰が嘘をついているのか」ではなく、
そもそも私たちは何をもって相手を“人間”と呼ぶのか。
そんなところまで物語が踏み込んだ、重要な回だったのではないでしょうか。
▶次回の記事
第8話では、確定村人である留守番を軸にした進行や、処刑なし・役職ローラーの判断、そしてゲーム終了後に起きたククルシカの暴走について考察しています。

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